天気の子はセカイ系か?
どうもreoです。
先日『天気の子』を見てきました。
東京が舞台ということで、異常なまでの絵の書き込みで見慣れた景色や映画館までの道のりがそのままスクリーンの中に出てきて楽しめました。中々面白かったのですが、ツイッター等で感想を見ていると、「天気の子はセカイ系だった」「ゼロ年代のセカイ系アニメを現代で作るなんて」という声が多く見られます。
僕はこれらの感想を読んで本当にそうか?と違和感を覚えたのでセカイ系とは何かを確認しつつ考察していきたいと思います。
当然のようにネタバレするので未視聴の方は注意してください
まず「セカイ系」とは何か。これと言った定義を持たずかなり曖昧ではありますが、映像作品において
・主人公とその周囲において物語が展開する
・主人公と周囲の狭い関係が世界の命運を握る
・主人公と世界の中間層として社会や国家が登場しない
・主人公の心理描写や精神世界が重要視される
等がセカイ系の特徴としてあげられます。
1995年『新世紀エヴァンゲリオン』の登場以降10年ほど流行っていた物語の構造で、悩みや人間関係をそのまま世界の危機に直結できるため絵的に映えるという特徴を持っています。
終盤の展開として「エヴァ破」のように世界かヒロインかの2択を迫られる展開が多く見られます。
では『天気の子』はどうだったでしょうか。
確かに陽菜が天気の人柱に選ばれてしまい、東京から終わらない雨を止ませることを取るか、陽菜を取るか、主人公である帆高の選択に世界の命運が託されているというシチュエーションは「エヴァ破」パターンのセカイ系の文脈そのものであり、この2人においてはセカイ系主人公とヒロインという役割が与えられています。
ですが本編において色濃く描写されるのはこの2人だけではありません。劇中で主に2人の前に立ちふさがるのは超常現象や神や天使などではなく、大人や警察といった社会であり現実です。これはセカイ系の物語には本来出てくることのない存在です。
僕はこれらの存在はセカイ系文脈の否定を意味しているように感じました。
警察たちは世界を動かす力を知っている帆高を当然のように狂人扱いします。また、須賀は帆高が陽菜を選んだことで東京の三分の一が水没したという真実を話したところでそもそも信じず、「自惚れるな」と一蹴します。
この「自惚れるな」はセカイ系の物語そのものへ向けられた言葉であり、勝手に少年少女に世界の命運を握られて蚊帳の外へと追いやられていた社会の抵抗です。正にセカイ系文脈の否定。世界を変えた事を大人からそんなわけないだろと言われてしまってはセカイ系はセカイ系なり得ないのです。
しかし否定だけが『天気の子』の本質ではありません。
帆高と陽菜が世界の形を変えた出来事は、観客である我々が目にしたように確かにありました。また、作中で流れる楽曲は全て帆高と陽菜に寄り添った言葉で歌い上げられます。
「諦めた者と賢い者だけが勝者の時代にどこで息を吸う」
「勇気や希望や絆とかの魔法 使い道もなく大人は目を背ける」
といった現実的な大人や時代に対して
「それでもあの日の君が今もまだ 僕の正義のど真ん中にいる」
「君がくれた勇気だから君のために使いたいんだ」
思春期特有の青臭い全能感を存分に表現し、彼らのあり方を肯定しています。
「愛にできることは”まだ”あるかい?」
愛が奇跡を起こすようなセカイ系少年少女は確かに時代遅れで、最近は見ることは減ってきました。
「愛にできることはまだあるよ」
それでも『天気の子』は愛が世界を動かした数多のセカイ系少年少女のあり方を、物語を肯定するのです。
帆高と陽菜の活劇は確かに存在しその結果として東京の三分の一を沈めましたが、そこに何の責任もありません。大人によってそんなわけないだろと否定されたから。
セカイ系少年少女はセカイ系文脈から抜け出すことで生きていくことを肯定され、「大丈夫だ」と言い合うことが出来たのです。
僕は以上のように『天気の子』はセカイ系文脈の否定であり、セカイ系で生まれた愛すべき数多の物語の肯定であると捉えました。
少年少女の狭い関係性からなる物語を現実という客観視によって否定しつつ、セカイ系物語の数々は確かにあったんだと存在を認めることで曖昧になって消えていく最中にあったセカイ系のあり方に終止符を打ったのです。
それでは今日はこの辺で。