死んでも死にゲーをやめない
どうも、reoです。
突然ですが皆さん死にゲーというゲームのジャンルをご存知でしょうか。簡単に言えば難しすぎて死にまくるゲームのことです。
日本で死にゲーを作っている会社といえばフロムソフトウェア。
『デモンズソウル』『ダークソウル』シリーズ、『Bloodborne』『SEKIRO』が今の所高難易度ゲーム=死にゲーとしてリリースされています。
先日、台風で家から出られないのを利用して近年発売されたゲームの中で最大最悪の難易度を誇る『SEKIRO』をクリアしました。難しすぎて一緒にやっていた友人の心が壊れていく様は記憶に新しいですが、晴れてフロムの死にゲーをコンプリートしたので愛して止まない死にゲーの魅力を語っていこうと思います。
どれくらい難しいかというと、同じボスに平気で10時間くらいかかったり、絶望の果てに禿げそうになったりします。だけどそれがたまらなく面白いのです。
これだけだと僕がゲームでやられる事を快感とする変態マゾみたいなので、今自分で着せた汚名を払拭すべく魅力が伝わるように説明していきます。
死にゲーの魅力その1 トライアンドエラーで成長を実感
ボスにやられて何時間も費やすことは日常茶飯事ですが、道中でも油断していると雑魚敵にあっさりやられてしまいます。それだけ敵が強いと必要なのは何度も繰り返し挑んで攻略法を見つけることです。敵の行動パターンや敵に見つかりづらいルートを試しては死に、その繰り返しの果てに進み方を掴んでいきます。
最初のうちは苦労しますが繰り返しやっていくうちに、最初はなす術もなくやられていたボスの動きが少しづつ見切れるようになって追い詰めていったり、1時間かかった道のりを5分足らずで進むことができるようになったりと自分の成長を目に見えて実感します。この成長が気持ちいいのです。
どれだけ難しくてもどれだけ下手くそでも、諦めずにやれば突破口が見えてくる。この絶妙なバランスに中毒性を感じてしまいます。
死にゲーの魅力その2 困難を突破した時の達成感
何度も繰り返しやられた先には必ずクリアがあります。何時間もやられ続けた強敵を打ち負かした時の達成感は形容しようが無いほど。
脳みそからギュルルルルルルと脳汁が分泌される音が聞こえ、雄叫びをあげて踊り出しそうなほどに気分は高揚し、意識がぶっ飛ぶほどのアドレナリンに包まれて身体は絶頂を迎えます。
この瞬間、この快感が死にゲーの醍醐味です。自分で書いておいて言うのも何ですが薬物依存者みたいですね。
死にゲーの魅力その3 散りばめられたヒント
大体の死にゲーにはステージにパワーアップアイテムが隠されていたり特定の武器を使うとボスに対して有利になるといった要素が存在します。
死に疲れたなら一旦戦場を離れてそういったものの探索をしてみるのもいいでしょう。負け続けた気分転換に別のステージを探索して見つけたアイテムのおかげで突破口が開かれるといったシチュエーションはよくあります。ただやられ続ける以外のやり方でも攻略の糸口が見えてくるのでストレスが溜まりにくいです。娯楽であるゲームでストレスを溜めるのは愚の骨頂ですからね。
使えるものは全て使う、全身全霊の体験が出来ます。勝てばいいのです。
死にゲーの魅力その4 正解は一つじゃない
ボスの倒し方、道の進み方に正解はありません。各々がトライアンドエラーの中で発見した方法が正解なのです。
同じボスに対してでも、正面から真っ向勝負をする、敵の隙を狙ってチマチマと体力を削る、バグ技や高低差を利用したハメを使う、有効なアイテムで簡単にするなど多様なアプローチがあります。どれも正解です。何度も挑んで見つけた自分なりの攻略法で進んでいくことができるので、自分自身の戦いだという没入感があります。
自分なりのアプローチで強敵を打ち負かす快感を覚えてしまったが最後、「もっとつえぇ奴と戦いてぇ!」と孫悟空のような思考になり、コントローラーを握りたくて手の震えが止まらなくなります。この震えは依存症ではなく武者震いなのでセーフです。
まとめ
まとめると死にゲーは、
持てる物全てを使って何度も挑戦し、導き出した自分なりのアプローチで困難を乗り越えて成長していくもの
です!!!
ん....?
これって....
人生じゃないですか!?!?
そうです(断言)。死にゲーには人生のエッセンスが凝縮されているのです。だからこそ他のゲームでは味わえない「体験」を味わう事ができるのです!
みなさん是非死にまくってください!
ここまで読んでくれてありがとうございます。死にゲーの魅力が少しでも伝わったなら幸いです。それでは今日はこの辺で!
喫茶店の素朴なナポリタンを作る
どうもreoです。
ナポリタンを作ります。
まず玉ねぎ、ピーマン、ベーコンをカット
オリーブオイルを垂らしたフライパンにニンニクを入れ、香りが出たら回収します
先ほどカットした具材を炒めると同時にパスタ麺を時間通り茹で始めます
玉ねぎの色が変わるくらいまで炒めたらケチャップとウスターソースを投入
チキンライスを作る時もそうですが、ご飯や麺を入れる前に具材にケチャップを混ぜ合わせておくとべちゃっとしなくて美味しくなります。
麺が茹で終わったらしっかり湯を切ってフライパンへ
弱火で麺全体にソースが絡むまで混ぜ合わせたら完成です。
黒胡椒とチーズをかけていただきましょう。
喫茶店で出てくるようなノスタルジックなナポリタンが簡単に美味しく作れました。
素朴でどこか昔懐かしい味が堪りません。ぜひお試しを。
それでは今日はこの辺で。
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を見てくれ
どうもreoです。
京都アニメーション制作のアニメ、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」をNetflixで全話視聴しました。9月、1月に劇場版が公開するということで駆け足気味に一気見。
友人に一年前から勧められていて、今の今までスルーしていましたが早く見ておけば良かったと思うくらい素晴らしいアニメでした。
あらすじは、戦争で兵器として生きてきた感情の分からない女の子、ヴァイオレットエヴァーガーデンが、戦争で行方を消した親代わりでもあった少佐の最後の言葉、「愛してる」の意味を知るために手紙の代筆屋を始め、様々な人達の大切な人に向けた気持ちに触れて心を知っていく物語です。手紙の依頼人はそれぞれ心に問題を抱えていて、ヴァイオレットと共に手紙を書く過程で自分の素直な気持ちと向き合い、前を向くことが出来るようになります。
基本的に1話で1つの手紙を担当するオムニバス形式でテンポが良く、1話20分に感動する人間模様が詰め込まれているので、僕はほぼ毎回滝のように泣きました。サクッと摂取できる強力な感動サプリ感覚で見られます。
話の展開がなんとなくわかるようなベタな話も多いですが、京アニ印の美麗な絵と繊細な心理描写によって物語が爽やかな風のようにスッと心に入り込んできます。変に気をてらわず正統法で感動させてくれるのがかなり好きでした。 視聴後に良い物見たなと優しい気持ちになれました。
名前以外の全てを失い人形と呼ばれた女の子が人間としての生き方を知る物語、ぜひ見てください。
劇場版楽しみにしていますが、泣きすぎて顔面が崩壊するので外を出歩くことが許される顔で劇場から帰ることが出来るのかが心配です。
それでは今日はこの辺で。
天気の子はセカイ系か?
どうもreoです。
先日『天気の子』を見てきました。
東京が舞台ということで、異常なまでの絵の書き込みで見慣れた景色や映画館までの道のりがそのままスクリーンの中に出てきて楽しめました。中々面白かったのですが、ツイッター等で感想を見ていると、「天気の子はセカイ系だった」「ゼロ年代のセカイ系アニメを現代で作るなんて」という声が多く見られます。
僕はこれらの感想を読んで本当にそうか?と違和感を覚えたのでセカイ系とは何かを確認しつつ考察していきたいと思います。
当然のようにネタバレするので未視聴の方は注意してください
まず「セカイ系」とは何か。これと言った定義を持たずかなり曖昧ではありますが、映像作品において
・主人公とその周囲において物語が展開する
・主人公と周囲の狭い関係が世界の命運を握る
・主人公と世界の中間層として社会や国家が登場しない
・主人公の心理描写や精神世界が重要視される
等がセカイ系の特徴としてあげられます。
1995年『新世紀エヴァンゲリオン』の登場以降10年ほど流行っていた物語の構造で、悩みや人間関係をそのまま世界の危機に直結できるため絵的に映えるという特徴を持っています。
終盤の展開として「エヴァ破」のように世界かヒロインかの2択を迫られる展開が多く見られます。
では『天気の子』はどうだったでしょうか。
確かに陽菜が天気の人柱に選ばれてしまい、東京から終わらない雨を止ませることを取るか、陽菜を取るか、主人公である帆高の選択に世界の命運が託されているというシチュエーションは「エヴァ破」パターンのセカイ系の文脈そのものであり、この2人においてはセカイ系主人公とヒロインという役割が与えられています。
ですが本編において色濃く描写されるのはこの2人だけではありません。劇中で主に2人の前に立ちふさがるのは超常現象や神や天使などではなく、大人や警察といった社会であり現実です。これはセカイ系の物語には本来出てくることのない存在です。
僕はこれらの存在はセカイ系文脈の否定を意味しているように感じました。
警察たちは世界を動かす力を知っている帆高を当然のように狂人扱いします。また、須賀は帆高が陽菜を選んだことで東京の三分の一が水没したという真実を話したところでそもそも信じず、「自惚れるな」と一蹴します。
この「自惚れるな」はセカイ系の物語そのものへ向けられた言葉であり、勝手に少年少女に世界の命運を握られて蚊帳の外へと追いやられていた社会の抵抗です。正にセカイ系文脈の否定。世界を変えた事を大人からそんなわけないだろと言われてしまってはセカイ系はセカイ系なり得ないのです。
しかし否定だけが『天気の子』の本質ではありません。
帆高と陽菜が世界の形を変えた出来事は、観客である我々が目にしたように確かにありました。また、作中で流れる楽曲は全て帆高と陽菜に寄り添った言葉で歌い上げられます。
「諦めた者と賢い者だけが勝者の時代にどこで息を吸う」
「勇気や希望や絆とかの魔法 使い道もなく大人は目を背ける」
といった現実的な大人や時代に対して
「それでもあの日の君が今もまだ 僕の正義のど真ん中にいる」
「君がくれた勇気だから君のために使いたいんだ」
思春期特有の青臭い全能感を存分に表現し、彼らのあり方を肯定しています。
「愛にできることは”まだ”あるかい?」
愛が奇跡を起こすようなセカイ系少年少女は確かに時代遅れで、最近は見ることは減ってきました。
「愛にできることはまだあるよ」
それでも『天気の子』は愛が世界を動かした数多のセカイ系少年少女のあり方を、物語を肯定するのです。
帆高と陽菜の活劇は確かに存在しその結果として東京の三分の一を沈めましたが、そこに何の責任もありません。大人によってそんなわけないだろと否定されたから。
セカイ系少年少女はセカイ系文脈から抜け出すことで生きていくことを肯定され、「大丈夫だ」と言い合うことが出来たのです。
僕は以上のように『天気の子』はセカイ系文脈の否定であり、セカイ系で生まれた愛すべき数多の物語の肯定であると捉えました。
少年少女の狭い関係性からなる物語を現実という客観視によって否定しつつ、セカイ系物語の数々は確かにあったんだと存在を認めることで曖昧になって消えていく最中にあったセカイ系のあり方に終止符を打ったのです。
それでは今日はこの辺で。
テスト期間、背徳感に苛まれながら綴る言葉
テスト期間。
それは学生に与えられた最大の試練。自制心との戦いだ。眠気や娯楽といった様々な誘惑が、燃え盛るべき学習意欲をここぞとばかりに根こそぎ枯らしていく。娯楽とは暇つぶしのためにあると真面目な方々は言うが、暇じゃない時に背徳感を心の片隅に宿しながら享受する娯楽ほど楽しいものはない。こんなことやってる場合ではないと焦れば焦るほどやめられない。自制心は眠りについた。
背徳感は最高のスパイスなのだ。
このように背徳感はあらゆる娯楽を一皮向けさせ、不毛な作業を捗らせる。
しかし、思えば最近は何事もクリーンにしようとする社会的風潮があるように感じる。「ゲームって素晴らしい。」「アニメは日本の文化だ。」「eスポーツは立派な競技だ。」確かに同意はするが、そこまで大々的に認められると気に食わない。
実際、これは自明であるがゲームを何百時間とする時間があるなら勉強でもした方がよっぽど立派だ。それでも敢えてゲームを選択し時間を費やすのが堪らなく楽しい。やるべき事を放置しているという事実が、心が求めるままに娯楽を貪っている実感を伴わせる。
正当化するだけが理解ではない。正しくないと念を押すのも理解なのだ。僕はゲームは一日一時間と教えられる世界で十二時間くらいゲームがしたい。これ以上食べたら太ると心配しながらついもう一口頬張りたい。我慢や自制心の裏に真の快感が隠れている。純粋な欲望に素直になった時、社会的存在である人間という理性の皮が剥がれ、ヒトという一生物として生きている実感に満たされる。双方のバランスが取れて初めて充実した人生だと言えるのではないだろうか。
以上、テストを明日に控えながら全く関係のないいたずらな文章を書き綴る快感に支配されてしまった哀れな男の独り言であった。この空しさが儚くも愛おしい。
ここまで読んでしまったあなたも背徳感の虜。夏休みまであと少し頑張りましょう。
鎌倉は美味しい 【鎌倉グルメ】
どうも、reoです。
先日鎌倉に行ってきました。
鎌倉といえば京都に次いで有名なお寺や大仏がたくさんある歴史ある街なのですが、そんな物はそっちのけ。鬼神の如く食べ歩きに精を出してきたので紹介していきます。
鎌倉駅に着いたのは14時ごろ、空腹で暴れ出しそうなのを堪え最初の目的地へと足を進めます。雨予報だったのですが1日曇りだったのは幸運でした。
駅から約3分、全く舗装されていない駐車場の様な道に入っていくと突然、お洒落なテラスのあるイタリアンレストラン、『ラッテリアベベカマクラ』が現れます。
大通りから逸れた道無き道の先にあるのでわかりにくいですが、隠れ家感が好きです。せっかく涼しい天気なのでテラスで食べることにしました。
照明やタバスコの容器が一々可愛い。
シラスと岩のりのパスタとプロシュート(生ハム)のピザを注文。
鎌倉はシラスが名産で、イタリアンでもシラスのメニューを扱っているお店が多いです。今回の鎌倉訪問はシラスが目的と言っても過言ではありません。
パスタは岩のりの塩気が強く濃い味付けの中にシラスの柔らかい甘味があってすごく美味しかったです。啜る手が止まらずあっという間に食べ終えてしまいました。
シラスのピザと迷ったのですが生ハムとチーズが食べたかったのでこちらに。
このお店はチーズ工房が併設しており、その日の朝に絞れたての生乳から作ったチーズが使われています。チーズの伸びがすごい。水菜も瑞々しくて最高でした。
イタリアンを食べた後は甘いものを食べたくなります。お店を出て大通りに戻るとすぐ如何にもインスタ映えしそうなお洒落ソフトクリーム店『DAIMYO SOFTCREAM』が見えて来たのでそこに入店。
生クリームを混ぜ込んだソフトクリームで、かなり甘めでした。
僕はブラックチーズとのミックスを注文。黒いソフトクリーム、黒いコーンという見た目も面白く、相当ミルキーで美味しかったです。
甘いものでさっぱりしたところですが、まだ食べ歩きは始まってもいません。
ここから小町通りを食べ歩きをしながら鶴岡八幡宮へと目指していきます。
食べ歩きで食べたものは写真を撮り忘れたので文字で説明します。
まずは元祖鎌倉コロッケと呼ばれる『鳥子屋』の牛肉コロッケと梅しそコロッケ
1つ200円と手ごろで、ほんのりとした温かさと甘みに包まれます。
平日の昼間に行ったにも関わらず牛肉コロッケは最後の一つでした。かなり人気な様です。
今日食べたものの他にも紅芋コロッケや黒ごまコロッケ、チョココロッケなるものまであり、なんでもありかよと思いましたね。人気No. 1は当然に牛肉コロッケでした。
続いてヒルナンデスで紹介されていたので前々から目をつけていた『はんなりいなり』のシラス稲荷です。僕はシラスもいなり寿司も好きなので夢の合体。マッスルドッキング。シラス稲荷のためだけでもまた鎌倉に行こうと思うくらい美味しかったです。
そして鎌倉名物といえばもう一つ、ソーセージです。
『腸詰屋』というオブラートに包む気の全くない名前のお店では、自家製ソーセージを食べることができます。ソーセージは極太、テラスには独語新聞が飾られていたりとドイツさながらの気分を楽しめます。
さすが鎌倉の中心。敷地がひたすらに大きく、周囲を囲う大自然に圧倒されます。
せっかく来たので本堂でお参りして、お守りを買いました。
敷地内をぐるりと回った後は夕ご飯です。そう、マジで食べてばっか。
食べ歩きは食べながらカロリーを消費しているので問題ないのです。
夕ご飯に選んだのは『もみじ茶屋』
シラスのお櫃ときつねうどんを注文しました。胃に限界はない。シラス食べすぎ。
どちらもダシが利いていて美味しかったです。
ひたすらに食べた鎌倉小旅行でした。観光地も多いのですが、美味しいものが至る所に転がっているので歩くだけで幸せでしたね。また行きたいと思います。
それでは今日はこの辺で